プロローグ

「大切な人を守るために」について

2024年1月14日

多感な高校生時代、私は度々田園調布にある宝来公園を訪れた。この場所は小さい時家族で時々散歩した懐かしい場所で、ボールを階段から転がしてしまうと植物で覆われた池が見えた。高校時代にはもう大きな公園とは思わなかったが、その高台の手すり越しによく夕陽が沈むのを見て、物思いにふけっていた。特に寒い時期にきりっと立ち小さな赤い花を付ける紅梅が好きであった。多くの植物たちや鳥を含む動物たちに守られ元気付けられたように思う。こうした環境に失恋も少しずつ癒されていったように思う。こうして私はいつしかこの植物たちや動物たちを守りたいと思うようになっていった。

大学では高校の先生の影響で好きになった化学の専門を活かし「公害」を何とかしたいと思い、その後はより「環境」の勉強をしたくなり大学院に進むことを決意し筑波に移った。ここで野外実習など幅広い経験を積むことができた。友人も様々な専門を持っていたので、話をしても話し尽きることは無かった。いつしか将来は高校の熱血教師になり、化学や生物を教えながら子どもたちと環境を大切に守っていく活動を進めていきたいと思うようになっていった。

こうして大学院2年目に教員試験を受け順調に進んでいたが、突然思わぬ出来事が飛び込んできた。それは18歳の従弟の白血病の知らせであった。私の母は6人兄弟の長女であった為、私が従弟の中でも一番年上で、中でも可愛がっていた従弟であっただけに、言葉も出なかった。大学院の求人で筑波に新たに製薬会社が研究所を作ることを知り、別の製薬会社に勤めていた父からの勧めもあり、何とかしたいという思いで一社だけ採用試験を受けることにした。神奈川県立高校の教員試験では校長面接が決まると共に、製薬会社からも早々内定通知をもらい、3月の土壇場まで考えた末、校長面接で採用を辞退し、教育委員会に謝罪し大学院にも謝り、最終的に藤沢薬品という会社に入社した。

入社以来白血病のことを調べ、彼の骨髄移植の可能性等を叔母に説明したが、成功率が低く最終的に断念することになった。それでも彼は一生懸命勉強し、早稲田大学にも入学したものの20歳という若さでこの世を旅立ってしまった。その時の無力感は言い表せなかったが、逆に彼が与えてくれた機会を通じて何としても人々のために良い薬を作ろうと、研究に専念する気力が自分に湧いていった。その結果、移植医療がまだ確立できていなかった当時、世界で類稀な免疫抑制剤の研究開発に成功し、全世界で非常に多くの人々の命を救う結果に繋がった。さらに臓器保存液の臨床開発にも携わり、日本での移植医療の定着に役立てたのではないかと思う。

その後も医療の世界で人々を救いたいという思いは変わらず、分子標的薬という新しいタイプの乳がんの薬が効く患者を選択する新しい遺伝子診断薬や現在も乳がんに抗がん剤が必要かを見極める新しい検査を開発してきている。気が付けば40年も医療の世界にいるのだと驚いてしまう。この間父を亡くした際、何かを残そうと5年かけ理学博士の学位を取得し、米国に赴任した。また、母を亡くした際も、何かを残そうと考え、8年の歳月を費やしてしまったがこれから紹介しようとしている1冊の本を出版した。タイトルは、「大切な人を守るために―私たちの力で地球の歴史を変えていこう―」である。長いお話になるので、本日はここまでとしたい。意識した訳ではないが、本日は父の命日にあたり、何かを始めようと心した日である。

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